積丹半島西側の袋澗

その3 神恵内村1


ニシン漁が盛んだったころ積丹半島には、袋澗と呼ばれるたくさん獲れたニシンを網に入れて生かしたまま保管しておくため、網元が海岸に石を積んだ堤で囲った、プールのような形態のものが多々造られた。

泊村に引き続き、神恵内村編 その1
その1 柏村1
その2 泊村2
その3 神恵内村1 弁財澗、旧道
その4 神恵内村2 澤口の袋澗
その5 神恵内村3 出町の袋澗
 
泊村から神恵内村に入って、入江が続く。


このような素晴らしい景色の入江(澗)には袋澗群が残る。
 


S-58、59号 神恵内村 祈石


2002年8月、手前が58左奥が59


2004年10月 工事用道路
 

2011年6月 入江中央に袋澗はあった模様

 
20011年6月 入江左、石組みの奥は、本によると埋立地
 

2011年6月 59の袋澗

 国道229号、茂岩トンネルを抜けたところで、2014年現在の道は、上記写真のように海岸寄りを橋で一気に通り抜ける。
2002年はまだ何もない状態だった湾に2004年訪問時に工事用の足場の建設が始まっていた。

2011年の訪問時は、道路は新道に付け替えられ、湾を海側から見る形になる。
祈石大橋から入江を見たもの。
ブルーの海がとても綺麗だ。


神恵内 弁財澗 (袋澗ではない)


2002年8月 弁財トンネルと旧道


2011年6月 弁財澗 
 

2011年6月 
 

2011年6月
神恵内村は、陸の孤島といわれ、村に入る陸路は険難の陸路ばかりで、先人たちはその開削に心血を注いだ。
国道229号の半島先端部の整備は大正10年、泊村茂岩?神恵内間の断崖の大工事に着手、大正11年(1922)のが開通を皮切りに進められた。

弁財澗は、袋澗ではないが神恵内村にとっては重要な拠点でもあった。



弁財澗 ・ 弁財トマリ

江戸期から見える地名で、ラウネトマリともいう、ラウネトマリの地名はアイヌ語のラウネモイに由来し、「深湾」を意味する。
そして弁財船が湾内に停泊できたので弁財泊と呼ばれるようにな
ったと思われる。松浦武四郎「再航蝦夷日誌」に「弁才トマリ、舟掛り澗。六百石位のもの、二、三艘かかる也」と記載されている。
明治期は、春ニシン漁に、東北地用からのやん衆が来村し、新潟秋田青森から弁財船でで生活必需品が運ばれてきた。これらの船は村の入口であるこの弁財澗に入港した。そして神恵内からの積荷である、ニシン粕や胴ニシンを載せて出港した。
現在、無人のこの地には弁財澗のバス停があることで地名が残っている。
 


S-57号 神恵内村 魚谷


2002年8月 
 


2011年6月 旧道は現道の工事道路として整備された模様
その道路下に袋澗
 

2011年6月 杭が打たれていたであろう岩の穴

 
2011年6月 袋澗の左側に石の堰堤の跡

本の中の図と、実際見た袋澗の形が合わないが、写真は2002年撮影したものと同一の場所が載っている。

ここで見た袋澗は、岩盤に等間隔で開いている穴が特徴的。ここに杭が打たれて、上部には桟橋か足場がついていたのであろう。 
 


S-56、56b号 神恵内村 尾根内


2002年8月
右が56、左が56b、左の崖の黒い部分は隧道!!


2004年10月 
工事用道路が袋澗部分の浅瀬へ。大きく景色が変わった
 

2011年6月
 まだ足場が残る、中央に一部遺構がある
 

2002年8月
入江奥に旧旧道のコンクリート製の旧橋

写真左の工事用の足場の横に袋澗の堤体が残っていた。2014年現在はこの足場は外されている模様。
足場間に堤体の遺構がある。
探索時に特に気にしていなかったが、左上写真の右側の崖の黒い部分が隧道であると、このページを製作中に検索ヒットした「日記的な何か」から判明した。探索までしているところが興味深い。サイト内では、「先には岩礁地帯が広がっているだけでした」とある。

断崖の下の狭い土地に鰊製造に必要な海産干場を設けなければならず、このような隧道が掘り進められ、限られた平地への連絡輸送路として利用していたのではないだろうか?いろいろ想像してみるのでした。
 



S−55〜53 神恵内村

国道から見える場所になく、時間的なことが大きく、訪問することは断念したが、かなり程度の良い袋澗群がある。
神恵内竜神岬下木下ノ袋澗
  



北海道の産業遺産?遺跡?に戻る