函館要塞(津軽要塞)


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函館観光の目玉、函館山からの夜景、麓からロープウェイに乗ってあっという間に334mの山頂に到着し、降りて眼下に広がる景色は、夜景だけでなく、昼間の景色でも素晴らしいものがる。

世界三大夜景、そのうちの一つとされる函館山の夜景。何時の頃からこのように言われるようになったのか?少なくとも、戦後に言われるようになったものと思わるのだ。
昭和33年にロープウェイの会社が運営を始めるのだが、それ以前、戦争中、戦争前の明治時代まで遡って、函館山には日本軍によって要塞が築かれ、立ち入ることはおろか、市街地から函館山を撮影することすら禁止されていたのがその理由。戦前であれば、街の明りも僅かだったでしょう。



ということで、要塞が機能していた頃の函館に関わる写真(絵葉書や本)や、地図には「要塞司令官部許可済」と印刷されている。

写真では、函館山が写らないように撮影したものや、写りこんでいるものに関しては、意図的に山を雲が被っているように白くぼかして山の存在を消している。

地図に関しても、函館市の地図には山は記載されていない。




 

函館要塞は、1895(明治28)年、日清戦争終結後、日露戦争を想定して津軽海峡の防衛強化のため、また当時の北海道開拓の玄関口函館港湾を守ることも兼ねて計画され、要塞地帯法によって1898年から函館山のいろいろな場所に本格的に建設された。

しかし、1904年の日露戦争時、ロシア艦隊が日本船舶に危害を加えたが、要塞の施設が旧式だったため、要塞からは1は1発も砲弾が発射されなかったとのこと。ただし、要塞の存在がロシア艦隊の攻撃の抑止力になっていたのは間違いない。

こう書くと、要塞は大した施設じゃなかったのか?と思う人もいるかもしれないが、石組みやレンガ造りの構造物の遺構は目を見張るものがある。



大正14年 最新調査 北海道精図 小島大盛堂 より
こちらの地図は、函館山は空白、
また、山の東側の市街地の広がりに偽りあり

函館要塞司令官許可済 大正二年九月十九日
と記載

 

その後、役立たずの大砲も撤去されたが、1922(大正11)年、軍部の意向で津軽海峡の重要性が再認識され、津軽海峡の青森側北海道側の各地、大間崎、竜飛崎、汐首岬、白神岬の砲台を合わせ津軽要塞が発足し、1940(昭和15)年に完成。

太平洋戦争が始まると、これまた、航空機相手に旧式で実戦には役に立たなく、函館も空襲にあって甚大な被害を受けた。

そして終戦を向かえ、明治後期から秘密のベールに包まれていた函館山は1946(昭和21)年、市民に開放された。そして、要塞の遺構も比較的程度も良く残っているのである。

函館山山頂の展望台のある辺りも、要塞の跡地である。

 



赤い丸は左から白神岬、函館山、汐首岬の要塞地帯を示す 北海道地図(出版元不明だがたぶん道庁)

前者と異なり、函館要塞司令部から、津軽要塞司令部検査済に 

参考図書 : 平凡社新書 保存版ガイド 日本の戦争遺跡

参考サイト : 北海道遺産物語函館山と砲台跡(映像が見れます)
        : ようこそ要塞探訪へ
        : 思い出の街 函館
        : 北海道人未来への贈り物 北海道遺産函館山と砲台跡


薬師山砲台 A 2007/7/1

御殿山第一砲台 B 2007/7/4

御殿山第二砲台 C 2007/7/14

入江山高地観測所 D 2007/8/24

千畳敷戦闘司令所 E 2007/9/12


千畳敷砲台 その1 F 2007/9/29

千畳敷砲台 その2 G 2007/10/18

千畳敷砲台 その3 H 2007/10/24 

立待堡塁  I 2008/2/17

  




国土画像情報 国土交通省の写真を加工したもの(ローマ字は各要塞、数字は道路の写真番号



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