今回のレポート1枚目は、道路というよりは、福山の集落の状態を記す。
【福山】 (角川地名辞典を参考)
かつてはオロロップと称された地域で、この地域に鉱物や森林が豊富であったことより、昭和16年よりこの地名となった。ちなみにオロロップは居路夫と書かれた。
明治末期に王子製紙への原木搬出で100〜500人が山に入った。大正年間に和歌山、滋賀、大阪、山形、岩手などから団体入植があった。クローム鉄鉱の八幡、岩美鉱山が昭和17年に最盛期を迎え人夫300人を越すほどの集落となった。戦後になって材木業の不振や鉱山の閉山、離農者も増えて人口が急減。
昭和40年 60世帯、327人
昭和50年 33世帯、104人
昭和60年頃 6世帯、 19人
昭和56年福山小学校閉校、同57年中学校閉校、同年福山郵便局閉局
こちらのサイトは大変興味深い→暮らしの架け橋 甦る廃校
パーキングエリアの裏側には学校跡っぽい雰囲気が残っているので、この付近を鬼峠さんと巡る。
パーキング横の砂利道を進むと門跡が現れ、その奥に校舎が眠っていた。
門は、左側に福山小学校、右側に福山中学校と書かれている(5)。
学校の昇降口まで、轍ができていて、難なく歩いていける。屋根はだいぶ痛んでいる(6)。
そのため、内部は雨漏りによってびしょびしょで天井は落ち、廊下は波打っていた(7)。
また学校までの道には、角に郵便局跡や、教員住宅らしき建物が残っていた(8,9)。 |