石北本線忘れられる駅



 忘れられる駅とは、どういうことなんだろう。平成13年6月30日に開通以来、石北本線の駅として存在していた天幕、中越、奥白滝の各駅が無くなった。つまり廃止されたのである。そこで石北本線の歴史に触れておく。

 石北本線は、旭川(厳密に言うと新旭川)から北見を通って網走へ至るの線路である。石狩国と北見国にまたがるのでこの名称がある。この線が完成する前は池田から、名寄から網走に向かうルートが先に出来ており、建設費のかかる石北トンネルで峠を越えるこの線が最後に昭和7年10月1日完成した。そして完成してから現在まで北見、網走方面のメインルートとなっている。ちなみに池田からのルートはふるさと銀河線に、名寄からのルートは廃止されている。
 昭和41年3月ダイヤ改正にあわせ客貨車分離を実施するなどして輸送の近代化をしたが、国道の整備と自動車輸送の発達によって国鉄離れが始まった。同50年12月に営業体制の近代化が実施され、同57年9月10日から上川〜北見間の自動信号化使用開始、11月15日からは石北線気動車急行、特急1人乗務実施された。
 同58年1月11日、石北全線の自動信号化完成により主要駅の他は無人化、委託業務駅となった。このとき中越〜奥白滝間にあった上越は廃止となる。

 実際廃止されるこれらの駅には現在1日1往復の列車しか停車しないのである。この列車を利用するのは、この付近で生活している人がいないので、物好きしかいないのである。そういうことでちょっとこれらの駅について、その背景をおりまぜて紹介していきたいと思う。、基本的には産業遺産なのかもしれないけれども、これらの駅がなくならなかったとしても、訪問はしようと思っていたので秘境探検シリーズと銘打ってこちらにグループ分けした。訪問日は平成12年6月8日。


 天幕駅
 天幕、とても綺麗な名前である。天幕のことについて詳しく(マニアックに)述べる。ソモソモこの名前の由来についてはいくつかの説がある。
1.天然自然の天容地形から起こったとする説
2.かつて測量隊の基地となったときに、天幕七張をはって宿営を続けたのでそれから起こったとする説
3.清水三次郎が天幕を張って暮らし、自称天幕三次郎といったところから起こったとする説
 記録的には明治43年刊行の当市の愛別町史「中央農村」に『まるで天の幕を垂れたように思えるこの景勝地を三次郎自らが命名して天幕とし、自ら天幕三次郎と称した』と記載されている。
 三次郎が天幕の地に入地した年は明らかではないが、明治22,3年頃北見道路(今の国道)工事のときに開拓をせず単に入地第一号とすれば彼である。明治39年12月6日吉田米蔵(鳥取県)が土を求めての入植第一号である。
 大正6年に留辺志部尋常小学校分校(昭和12年小学校昇格)が開校し、昭和4年石北線開通、同6年天竜鉱山付属精錬所ができ、同28年木材景気により木工場が進出した。
 昭和15年、鉱山は閉鎖された。この鉱山は自産の鉱石が無く買鉱(他山からの購入)だった。40年後半、木工場が他地区に転出すると住民の流出が激しくなった。ちなみに人口(世帯)は昭和35年344(68)、同45年142(39)、同55年22(8) で同60年(注1)8(2)である。殆ど今は人がいないのである。

 能書きはこのくらいにして、上川から国道273号を石北本線と平行して走り、左手に踏み切りがあるところを曲がるとそこは国道の旧道である。僕の持っている昭和51年の道路地図ではまだ国道はこちらの道を走っていた。そこをまっすぐ行くとそこに天幕の駅がある。旧道の入り口から駅までの間に民家は1,2件しかないので静かなところと思いきや、ダンプが駅前をたくさん走っている。自分のこの駅への先入観は静かなところであろうと思っていたけれども、裏切られた。なんと駅前は一般廃棄物保管施設(伐採物)になっていた。ここに向かってダンプが来るのである。きっと駅前がこのようにゴミ捨て場な所なんてほかにあるのだろうか?
 駅は、写真のとうりである。駅の裏には国道が走っているが国道には出られない。線路は昔といっても最近まではすれ違えるようになっていた。駅を眺めた後、この旧道をさらに奥に進む。駅からちょうど400mくらいの場所に白い建物の廃墟が眠っていた。「旭川−北見間 第二電話中継所」と書かれていた。建物の入り口までは、木々が生い茂りとても近づくことは出来ない。更に400m進むと小学校の跡がある。ここは上川町が建てた石碑がある。この辺りに2台の自転車が止まっており、お年寄りが木々の間で山菜?を採っていた。きっと天幕に住む唯一の人たち?であろう。この先には熊注意と書いてあり引き返して来た。
 そして国道に戻って天幕を後にした。



駅を旧国道から見る
天幕駅は昭和4年11月20日天幕の開業し、鉱山の出現によって駅前に飲食店も出来た時期もあった。部落の盛衰を見つめてきた。



駅舎と剥がされた線路跡



雪の重みで屋根がつぶれた廃墟
旭川−北見間 第二電話中継所。どのような施設だったのか、そしていつその使命が終わったのだろう。(誰か情報ください)



石碑が小学校の過去を教えてくれる
大正6年4月1日開校し、昭和51年2月24日廃校。59年の歴史を刻んだ。生徒数は昭和8年46名、14年105名だが、15年に鉱山閉山で55人に激減。18年には35名。


中越駅と上越駅(信号場)
 中越の由来は以下のとうりである。まず越路という地名を述べておこう。越路がルベシベの意訳(アイヌ語でルベシベとは山を越えて向こう側の土地へ下り行く路のある沢の意)で、越路は愛別、朝日町に接する辺りの場所を指し、既に完工していた北見道路の起点とも考えられていた駅逓あるところである。その駅逓から約5里の場所に、国境の中ほどの意味で中越という地名を名付けた。
 開拓は明治45年から始まったが、明治25年には駅逓所があった。駅逓とは、北見道路が開通してここを行き来する人たちに休養と宿泊の場所の提供し、宿と長途の助けとして車馬が用意したものである。ちなみに駅前には駅逓跡の碑がある。
 大正6年6月17日智来別私設教育所としが開校し、のち中越小学校となる。昭和48年3月24日廃校となり57年の歴史に幕を閉じた。昭和36年に最高80名の学徒がいたが、この地にあった蝦名林業経営の木工場が同41年に転出すると、47年には4名の学徒になってしまった。今回の旅では、小学校の跡は何処にあったかは解らなかった。
 また中越は、天幕よりも人口が多い時期が長く、昭和35年の人口(世帯)は567(106)でピーク、同40年379(98)、同45年118(39)、同55年37(19)、同60年(注1)0(0)となり無人地帯となる。
 天幕から峠に向かう道を時速70キロくらいで走る。しばらく走ると国道と平行して走る建設中の高速道路の工事事務所らしきモノが見えてきた。その向かいには写真の廃墟が、そしてそこから100mくらいのところに中越の駅が現れた。
 駅横には、石北線が全線開通したときに自然石に彫刻された記念碑がある。そして駅構内は、峠のふもとの駅として大きく、ルピナスと雑草に被われている側線跡がこの駅が交通の要所だったことを教えてくれた。駅の写真を撮っていると、作業着を着た二人が駅に現れた。かまわず写真を撮っていたら、話かけれた。彼らは名乗らなかったが、作業着(制服?)に開発局のマークが付いていた。彼らはこの駅が廃止されることを知らなかったが驚きもせず、ずっと人が住んでいないからしょうがないのかもね〜って答えた。そして、彼らが子供の頃は、木工所や国鉄官舎や小学校もあった話をしてくれた。
 そして車を上越に向けて走らせようと国道を100mくらい進むと、国道にはそれなりに立派な歩道が残り、等間隔で歩道が段になっており民家の駐車場(もちろん民家も)がそこにあったことを物語っていた。そして国道は山道になる。石北線を超えたりくぐったり、また工事中の高速道路の橋を山の上に見上げて上越へ向かう。北見峠を越える国道は上川から北見までのメインルートではないせいか平日の昼間なのに交通量は少なかった。
 線路をくぐってすぐ国道からダート道に曲がって坂を下る。するとつり橋の向こうに上越信号場が見えた。つり橋を渡り、線路の方に行こうとするけれども古い池の跡がじゃまをしてすんなりいけない。この池で何かを飼っていたのか?でも厳寒期は全部凍るよな〜なんて考えつつ、線路のほうへ。ホームが無く、壊されたのか元々無かったのかどっちなんだろう?って疑問に思った。信号場となったこの駅の写真を撮り始めてさて帰ろうとしたら「快速きたみ」がやってきた。人がここに住んでいた形跡が青々と茂った木々のせいか分からなかった。

 上越は、明治31年北見峠に私設駅逓(のち官設)のよって開ける。ただし上越駅のある地区ではないと思われる。
 人口(世帯)は、昭和30年124(25)でピークで、同35年64(25)、同45年26(96)?(データ的に変だが、そう記載されていた)、同50年に無人の地に。上越の歴史は上の二つのようには分からなかった。
上越駅は昭和7年10月1日、石北本線全通時に信号所として開業した。夏は浮島峠に行く旅人、冬はチトカニウシスキー登山客の乗降に使われた。当時旭川鉄道管理局主催のスキー列車が年中行事だったこともある。
 ここは豪雪地帯であったため、冬は駅職員、保線職員が除雪、石北トンネルの除氷をしていた。




駅舎と古びたホーム。
昭和4年11月20日石北西線終点として開業。
駅の横に止まっているのは休憩のために立ち寄った開発局の人の車。
全線開通後、峠越えする為の補助機関車がこの駅で増結された。



駅の中の時刻表
そのため停車時間が長く、駅前の雑貨店でお酒を買って列車に持ち込んだという話もある。
最近1日1往復の列車も、家に残る昭和45年の時刻表では5本の列車が停車していた。



民家なのか商店なのか?
駅の横に残るこの地区唯一の廃墟?。右側奥のちょっと解りにくい白いものは中越駅。



標高634mにある上越信号場
国道から離れた山の中にこの信号所はある。遠くの緑の橋は建設中の高速道路。
この辺りは人が住んでいたことを感じさせない。


奥白滝駅
 国道333号を白滝方向に向けて走る。北見峠標高830m地点に、この中央道路開削殉職者の碑がある。中央道路(現在の石北本線と平行する国道)は北辺防衛のため明治24年から造りはじめ、ほとんどが囚人によって工事が行われた。不眠不休の労役のため、死者はたくさんでたためこの碑があるわけだあるが、同様昭和になって開通した石北線も過酷な労働によって造られた(死者多数)ことも忘れてはならない。
 ヘアピンカーブを下りていき、チェーン着脱所が見えてきたらそこが奥白滝である。そこからすぐのところに「奥白滝開拓記念碑」があり、その向かいあわせで駅がある(国道から駅まで砂利道が150m)。


 奥白滝は、大正2年に宮城団体10戸、福島団体18戸入植して歴史は刻まれ始めた。その後も土地を求めて入植者が増えた。石北線が開通した昭和7年に戸数は112まで増えたが、昭和40年人口212世帯53でこの頃から過疎化が進み、店等もなくなっていき純農家地区となる。昭和50年に人口133世帯21、鉄道の自動信号化された58年に無人の地となる。

 奥白滝駅は今までの駅の中で渋いというのか趣きがあるというのか、一番存在感があった。駅前から国道までの距離があるからかもしれない。駅で写真を撮っていると、オホーツク4号がエンジンを唸らせて通過していった。
駅から離れて記念碑のあるほうに行く。広い空き地とそこに何本かの大きな木があってこの辺に集落があったのであろうことを伺うコとが出来る。
 車でここを去ると白滝方向に一面牧草地?の隅に通信施設の廃墟と、民家の廃墟が残っていた。そしてこのまま白滝シリーズを見にむかった。


渋さを醸し出す駅舎
無人の地に存在する奥白滝駅。残念なことに駅名板が剥がされていた。
国道と駅の間は、駅を正面に右が荒地となっているが、かつては何件かの家があったのであろう。左は植林されていた。


駅全景
互い違いのホーム。左にある新しい建物は信号施設(天幕、中越にもあった)。


国道沿いにある、また謎の設備跡

旭川−北見間無装苛 第三電話中継室と扉に書かれている。さらにその文字の下には旭川−丸瀬布奥白滝電話中継所の文字が読み取れる。
天幕と同様の設備だったのか?


国道沿いにある廃墟
2件?ほどこれと同じような造りの廃屋が勾配のついた国道に面して残っていた。官舎だったのか?上の建物に関係があったか?


まとめ
 これらの無人地帯(天幕には人がいるが)になってから15年以上経っているのに、ずっと利用者がいないにもかかわらず駅だけが存在していたのは奇跡だったのかもしれない。定期利用者がいないのに冬の除雪もしなくてはならないので経費がかかるはずなのに…。

 最後にこれらの駅の利用状況について表にしてまとめた。(データが抜けてるところは不明)
 

昭和36

40

44

50

53

57

乗降客(人)
天幕    小荷物(個)
貨物発送(トン)
貨物到着(トン)

 

44,583
1,984
2,083
1,868

26,836
1,132
3,331
178

9,054
1,100
585
32

1,302
664

718
294

乗降客(人)
中越    小荷物(個)
貨物発送(トン)
貨物到着(トン)

 

64,066
2,147
8,802
2,841

17,846
1,132
39
1,032

1,666
439
32
156

1,777


151
(昭和56)


乗降客(人)
上越    小荷物(個)
貨物発送(トン)
貨物到着(トン)

 

4,358
82


4,354
344


151
260


乗降客(人)
奥白滝   小荷物(個)
貨物発送(トン)
貨物到着(トン)

17,688
25
1,480
3,300

18,161
42
274
625

8,931
63
143
1,619

     

(注1):昭和62年発行の角川日本地名大事典の発行当時の数値。実際60年かどうかは分からないので僕の推測である。

with白滝シリーズへ続く
石北本線忘れられた駅に進む(廃止後約1年経った写真の紹介)

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