「羽幌町人口水増し事件」という前代未聞の大事件 タイトルの件をネットで検索したが… そういう事件があったということだけが触れられ、特にそれがどのような過程で起きたかは書かれていないので、参考資料を入手したのでまとめてみました。 ウェブ上でこのページを参照する場合は、参照先としてここを紹介してもらえるとうれしいです。 参考図書:戦後の北海道 道政編/北海タイムス社編 概要 羽幌町では昭和45年の国勢調査で実人口を出すと、それぞれの数字操作がばれ、羽幌港の整備事業の遅れや、地方交付税の減額などの影響が心配されると考え、公表人口に近づけるため人口の水増しを相談、A室長らが調査用紙に架空の居住者や転出者を現住所のように下書き、これを調査委員に書き直させるなど、1202世帯、5951人を水増しした。 羽幌町の国勢調査の結果に疑問があるので、調査してほしいという住民からの申し立てが、昭和46年7月下旬から何回か道をはじめ、総理府統計局、旭川行政監察局などへ出されていた。申立人は、羽幌町議Y、羽幌町議会長。 具体的に不審点を示し、資料までつけ、昭和45年に実施した国勢調査によると、羽幌町の人口は、2万8574人となっているが、実際は人口流出が激しく、これより約4000人少ないはずだと、訴えている。 告発により、道は、現地へ事情を問い合わせたところ、疑わしい点が出てきたため、11月22日から5日間現地調査をする。 羽幌町の人口水増し問題は、46年5月の定例町議会でYが取り上げ、一部に明らかにされていたが、道が調査に乗り出すとのことでマスコミが一斉に報道し始めた。 道が12月1日からも再度調査すると、道の統計課は「疑わしい点が多々あり、総理府の指示を仰ぐ」と発表。こうしたなか、羽幌町長Xが11月27日突然同町議Bに日付の入らない辞表を預け、一時行方不明となるという騒ぎも起こる。 12月3日、同議会総務委員会において、現地調査の結果を報告した。 実際の人口と国勢調査との間に、4〜5千人の差がある。今後の処置は、総理府統計局に報告し、国の判断を待つことになるが、故意に操作した町の責任は免れない。 羽幌署と道警が、統計法違反と公文書偽造の疑い強いと捜査に乗り出す方針を固める。 国勢調査史上類を見ない事件となった。 羽幌町が人口の水増しを図った理由については、市制移行の特例基準、人口3万人を維持し、市の昇格を目指すために、との見解が主だった。事実、それまでの町の動きや経過には、裏付けとなる点が多かった。 同町は、昭和40年の国税調査で3万266人となる。道では、登別、恵庭、亀田の各町とともに、市制の有資格があるとクローズアップされ。当然町長Xをはじめ、町民の多くも、市制への夢を膨らませる。 44年、町は、正式に市昇格に向けて名乗りを上げた。町長Xは、市になるには、それ相応の準備が必要としと、年間財政規模の3分の1を使い4階建ての町庁舎建設に着手。しかし、石炭合理化の波が押し寄せていた。 心配は現実のものとなり、市政への期待を押しつぶすように、羽幌炭鉱は、43年に開坑した築別西坑の坑内条件の悪化により、経営も悪化し、、45年9月に会社更生法の適用を申請、11月に閉山した。このため、市昇格に執着する羽幌町に対し、自治省や道は、閉山によって人口の加減が生じるため45年の国勢調査結果によって市制移行を決めることにしていたのだ。 閉山によって、労働者たちは一斉に町から流出し、過疎の町という様相が強くなった混乱の最中に、この国勢調査が行われた。 参考
閉山に追い込まれた昭和45年は、閉山するかもという流言飛語によって閉山が決まる前の人口の流失が著しく、5ヶ月の間に約1万人がこの町を去っていった。 ちなみに羽幌町の人口は、昭和44年32,095人(6,958世帯)が最高で、昭和50年13,000人台、昭和60年12,000人台、平成9年10,000人台を割る。 道は12月14日、羽幌町の人口水増しは約5900人と正式な調査結果を発表。 同町は、3万市制実現を目指したころから、転出、死亡した町民を住基台帳からは消していたが、道へは、除去しない数字で、人口移動報告を行っていた。45年7月に、国勢調査臨時調査室を設けて準備していたが、すでに住基台帳と、道への報告にかなり相違点が出ており、このまま調査すれば大きな差が生じることは明らかで、10月の調査前の8月から調整の作業に入るが、調査時点までに補正しきれず、水増しせざるを得なかなった、という道の調査報告。 水増しを告発したYは、「人口が大幅に減れば、国の過疎指定を受けられる資格があり、そのほうが町のためと考え町長に進言したが、町長は耳を貸そうとしないので、やむを得ず非常手段に訴えた」と公言したが、多くの町民は、その裏にYと町長Xの政争が渦巻いていることは周知の事実とされていた。 過去の事件として水増しの起こる前の昭和37年、X派がYに不正ありと噂を流し、警察の捜査も入ったがシロ。シコリが強く残っていた。 道警は12月23日、水増し作業をした町職人79人を取り調べ。24日には、国勢調査当時、の庶務課長ら15人を統計法違反などで旭川地検に送検した。昭和47年1月17日、水増しを指示したとして、町長Xと助役C、総務部長D(のちの羽幌町長)の3人も地検に送検された。 同20日、町長と助役が辞職。町長選挙は3月8日と決まった。 水増し事件で羽幌町の政争はひどい状態になった。 結局、Xが町長選に再出馬しても、水増し批判をかわしての五選となった。 が、Xには裁判が待ち受けていた。X派とY派の対立は全町で、そして役場で続き、行政は成り立たない状態だった。 ということで、道からの羽幌町立て直しの人材の派遣を受け、町を立て直していくこととなる。 旭川地裁で行われた公判で、町長Xをはじめ、被告人は全員、「水増しを共謀したことはなく、あとで水増しを知った」と容疑を否定するが、途中で、総務部長Dや、庶務課長は罪状否認をひるがえし、「町長が水増しを指示した」と主張し、ここで新たな対立が生じた。 同地裁は昭和48年6月、町長Xに懲役1年6か月執行猶予3年の判決。は控訴するが、札幌高裁が49年9月これを棄却し、Xも上告せず刑が確定。 昭和50年4月、罪状否認をひるがえした総務部長だったDと懲役明けのXが町長選で対決する。結果はD。これを機に水増し事件は町民の間から忘れられていった。 戻る |