古番屋はセンポウチと呼ばれていたらしい。徳川時代には駅逓、明治・大正にはニシン漁の漁舎があったらしい。
道が3方向に、まずは直進して知方学方面に進む。運転していたらローマ字表記までは読めない。実際の上の地図に記した番号の訪問順序は、6−5−4−7である。
ということで、右方向に進む。道は下り坂になり、さらに分岐が現れる。どちらも同じような狭い対向車がきたらどうしようっていう砂利道であり、両方向に行ってみると海岸部に民家があった。ところで、「高見」という地名が表記されているが、どちらがそれなのかは判らなかった。案内標識では右側に書かれているので砂利道の分岐の右側が「高見」なのかもしれないが、釧路町史では、高見の崎は100m崩れ民家も移転しその面影もないと書かれている。ちょっと謎である。移転して今の場所なのかな? 古文書には、ここ知方学から、去来牛、別尺泊、仙鳳趾の沿岸にかけ夷家(アイヌの家)が散在していたと表記されている。
古くは武四郎の「蝦夷日記」に初めて出てくる地名であるが、古文書にはあまり出てこない名前らしい。昔は昆布を採るため夏場にしか人がいなかったようである。 3.別尺泊での案内板の分岐点に、フクロウの案内板は存在している。ここから集落までは細いながらも新しい舗装道路がつながっており、終点には立派な港があった。
老者舞付近にはオタモイという地名も存在していた。波静かな砂地の浦の意で、昔は拾い昆布漁をしていた民家が1、2戸あったらしい。