明治44年(1911年)、インターナショナルオイルコンパニーは日本石油に資産を譲渡、日本石油は、石狩に鉱場を設けて事業を引き継いだ。この年、手稲軽川に北海道製油所を設立、管の直径は約5センチの鉄管をさらに延長して、来札から軽川まで送った。採掘所から製油所まで約30キロにもなった。
製油所では、原油からガソリン、灯油、機械油、重油などを生産し、北海道、樺太に供給した。
その後事業の拡大をはかり、昭和4年度は年産1,271キロリットル生産。しかしその後は下降線で昭和10年にはおよそ半分の量しか産出できなくなった。
戦争が始まり、昭和16年、政府出資の国策会社、帝国石油に移管され、戦時体制化で産油は続けられる。
戦後、昭和30年には産油量は厚田油田の産出量も合わせて、1800キロリットルとなり最盛期の5分の1となってしまった。
昭和34年、帝国石油から北宝石油鉱業に受け継がれたが、翌35年石油と天然ガスの採掘は中止され、石狩油田58年の歴史は終わった。 |