敗戦後は経済復興が求められるなか、労働者の失業対策事業の一つとして、昭和25年んに御殿山山頂までの登山道路、昭和27年に立待岬から穴澗までを結ぶ道路も建設開始、御殿山山頂から千畳敷、碧血碑から立待岬などでも道路計画、着手がされていった。
道路工事によって鳥類や、植物群が犠牲になる影響もあり、観光か自然保護かといった議論も一部ではされていた。昭和34年、「函館山植物誌」が出版され、その植物の多さを証明した。また、昭和32年に休猟区、昭和37年に鳥獣保護区、39年に特別鳥獣保護区に指定された。
昭和40年代になると、道路建設をめぐる議論は活発化された。登山道の建設によって、大量の車が山頂まで乗り入れるようになったため、駐車場の問題、渋滞が問題化された。その解決策として、山頂から、立待岬へと循環させるための下山専用道路、所謂」函館山周遊道路」の建設に焦点が当てられた。
当初失業対策事業だった道路建設も、昭和42年に公共事業に切り替わり、本格的に5年計画で開通させることが決まった。昭和44年に千畳敷まで道路が完成し、翌45年11月から残りの部分の建設も始まった。道路工事により、排出された土砂もそのまま放置されたままであったようである。46年から中断されていた。
このころより、自然保護運動の高まりを背景に周遊道路の反対運動が活発化されてくる。自然保護協会はすべてを反対するわけではなく、道路建設に対して破壊を最小限にするために周遊道路の代替案を出したが、函館市は、すでに道道に昇格させた経緯があるので、立待岬コースの変更は困難としていた。 |