浦幌炭鉱(炭砿)は、釧路炭田西端、浦幌川支流常室川沿いに26キロ上流の台地に存在していた。
大正2年、浦幌でいくつかの砿山を経営していた古河鉱業(明治28年に探砿)を大和鉱業株式会社が買収して、同7年より常室、留真、毛無の3ヶ所で開鉱したが、炭層不安定、輸送設備不備であった。明治末期から大正前半は日本の各産業界は黄金時代を迎えていたが、第1次世界大戦が終了すると大正8年より不況が深刻化もともない同10年に出炭も鈍り休山する(同12年の説もある)。
昭和8年7月に再開し、はじめ留真坑のみで出炭していたが、馬車で浦幌市街まで運ぶのは不便なため、常室川上流の双運坑、その3キロ上流太平坑を開鉱した。このとき浦幌市街から毛無事務所まで馬車軌道が出来た。(毛無は双運坑のことか?)同10年からはトラックで搬出開始した。
昭和11年10月浦幌炭鉱は、三菱雄別炭砿鉄道株式会社の経営となり、山向こうの音別町尺別炭砿の管下になった。12年までは索道で出炭物を尺別選砿所に送っていたが、6キロにわたる尺浦通洞(トンネル)が同16年11月に開通し石炭輸送の近代化がはかられた。
また日中戦争が始まり、昭和14年より朝鮮人労働者が入り(浦幌と尺別と合わせて1000人以上いたとされる)出炭をしていたが、昭和19年政府非常増産緊急措置により尺別炭砿の休止と同時に休山し、坑内夫1000人余は国策令によって妻子を置き九州の三菱系炭鉱へ強制転換させられた。これによって尺浦通洞を使用したのはわずか2年半であった。
終戦後23年6月太平鉱を中心に出炭を再開した。同25年、この地区は730戸にまで家が増え浦幌炭砿小学校と中学校が増設され、同28年には浦幌高校炭砿分校も開設され、炭鉱最盛期には毎日映画も上映されていたが、同25年には再び尺別炭砿に併合されている。
最盛期を過ぎると国内炭の需要減少が一気に進み、昭和28年に希望退職者300人をつのり、同29年10月に浦幌炭鉱は幕を閉じる。従業員は雄別、尺別、茂尻へ配置転換され、尺別に転換された人は通洞を通って働きに出ていたが、翌年通洞を管理する問題より尺別に職員は移住する。これに伴い昭和30年高校の分校は廃校、同32年に小中学校とも廃校となり他校の分校となる。
昭和42年には、この地より全ての人が去り、分校も廃校となり無住地となる。 |