浦幌町

北海道十勝支庁管内の最東端。
地形はゆるやかな丘陵地と河岸段丘からなり、東は丘陵山脈、南は太平洋に面した南北に長い町で、山林が65%を占める行政面積は全国市町村で32番目の729.64ku。


写真:炭鉱跡に唯一残る炭鉱住宅跡。


浦幌炭鉱(炭砿)は、釧路炭田西端、浦幌川支流常室川沿いに26キロ上流の台地に存在していた。

大正2年、浦幌でいくつかの砿山を経営していた古河鉱業(明治28年に探砿)を大和鉱業株式会社が買収して、同7年より常室、留真、毛無の3ヶ所で開鉱したが、炭層不安定、輸送設備不備であった。明治末期から大正前半は日本の各産業界は黄金時代を迎えていたが、第1次世界大戦が終了すると大正8年より不況が深刻化もともない同10年に出炭も鈍り休山する(同12年の説もある)。

昭和8年7月に再開し、はじめ留真坑のみで出炭していたが、馬車で浦幌市街まで運ぶのは不便なため、常室川上流の双運坑、その3キロ上流太平坑を開鉱した。このとき浦幌市街から毛無事務所まで馬車軌道が出来た。(毛無は双運坑のことか?)同10年からはトラックで搬出開始した。

昭和11年10月浦幌炭鉱は、三菱雄別炭砿鉄道株式会社の経営となり、山向こうの音別町尺別炭砿の管下になった。12年までは索道で出炭物を尺別選砿所に送っていたが、6キロにわたる尺浦通洞(トンネル)が同16年11月に開通し石炭輸送の近代化がはかられた。

また日中戦争が始まり、昭和14年より朝鮮人労働者が入り(浦幌と尺別と合わせて1000人以上いたとされる)出炭をしていたが、昭和19年政府非常増産緊急措置により尺別炭砿の休止と同時に休山し、坑内夫1000人余は国策令によって妻子を置き九州の三菱系炭鉱へ強制転換させられた。これによって尺浦通洞を使用したのはわずか2年半であった。

終戦後23年6月太平鉱を中心に出炭を再開した。同25年、この地区は730戸にまで家が増え浦幌炭砿小学校と中学校が増設され、同28年には浦幌高校炭砿分校も開設され、炭鉱最盛期には毎日映画も上映されていたが、同25年には再び尺別炭砿に併合されている。

最盛期を過ぎると国内炭の需要減少が一気に進み、昭和28年に希望退職者300人をつのり、同29年10月に浦幌炭鉱は幕を閉じる。従業員は雄別、尺別、茂尻へ配置転換され、尺別に転換された人は通洞を通って働きに出ていたが、翌年通洞を管理する問題より尺別に職員は移住する。これに伴い昭和30年高校の分校は廃校、同32年に小中学校とも廃校となり他校の分校となる。

昭和42年には、この地より全ての人が去り、分校も廃校となり無住地となる。






常室の集落と青看板
 浦幌市街から道道56号本別浦幌線を約7キロ北上し、常室の集落で道道500号音別浦幌線と分岐して、浦幌炭鉱方面へ。
 ここの青看板には「炭山」として表示されているため、炭鉱がいまだに操業しているように思えてしまう。
 よく整備された道道を走っていくと畑と何軒かの家があって、やがて森の中に入りしばらく走り「炭鉱の跡なんて無いじゃないか!」と思ったころ左手に、TOPの写真の炭住跡が現れた。



3棟の炭鉱住宅跡、道路の整備具合も…
 昭和29年に閉山したので、それ以前に建てられた当時近代的であったであろうブロック?煉瓦?造りの2階建アパートは、風雪に耐えられず壁に大きな穴が開いているものもある。また木々に覆われており、近づくものを拒むようでもある(雪解けが終わった頃はきっと簡単に近づけますが…)。
 屋根の上からかなり大きな木が生えてきているのを見ると、時の流れを感じざるを得ない。



炭鉱街を示すものは何も無い。
 ここで綺麗な舗装道はダートになり、さらに進む。少し走ると浦幌炭鉱があったことを伝える看板が立っていて、大まかな地図も表記されていた。
 ここから炭鉱商店街が始まっていたが、その街があったと思えるような物は何も存在していなかった。また「みらいの森」と書かれた最近建てられたと思える看板もあった。
 さらに奥に進むと、小さな案内板が今残るものを教えてくれた。


地図の写真では見づらいので左下から補足
唯一残る建造物(炭住1棟12戸)
砿員住宅(道路の左戦前からある)
浴場、製綿工場(道路右、記載なし)


現在地の左上から
中学校(高校併設)・砿員住宅・購買所
道路をはさんで、協和会館・商店街・派出所・消防
真ん中付近
川向こうの小学校・双運寮・砿員住宅・寺
橋を渡って下側、病院・総合ボイラー(記載なし)
上側、購買会(旧)(記載ないがその上に8戸長屋俗称ハーモニカ長屋があった)、上に登っていく道路に神社(こちらも記載なし)
上下に貫く点線の下、尺浦通洞
その上、積替設備
右側下から、変電所・その脇にタコ部屋(記載なし)・事務所・送発所
上の道を上がっていくと、排気坑と職員クラブ(記載なし)




病院前の道路はただの林道にしか見えない。




旧病院跡地には、建物の基礎が森の中に残る。


復興記念碑。何時建てられたのだろう。

 商店街には最盛期には20店舗ほど店があり、街全体で3600人が生活していた。
 ダート道を走っていくと植林された森の中を走ることになるのだが、これは閉山後借地用地のため道に元の状態にするという条件で取り壊しがなされたからである。
 病院跡には建物の基礎が残り、かなり大きな建物であったことが判り、道路をはさんでの少し高台には、復興記念碑が建っていた。その先を進むと、尺浦通洞に通じる築堤と、そこを通っていたトロッコ軌道の橋脚跡が残っていてここでダート道は二又に分かれて、左は通行止、右はさらに川沿いに延びる林道と山を登る林道に分かれる。後者を進むと尺浦通洞の上に到達できるのだが、確認は出来なかった(他サイトでは映っているものもある)。


築堤跡が森の中に続く。この先に尺浦通洞がある。

常室川に残る橋脚跡。左は上の写真の築堤。

産炭量(t) 従業員(人)
S 8

1,009

85

 10

20,795

 
 18

174,900

1,084

 19

63,600

158

 23

222,286

500

 26

94,100

 
S20〜22年産出無、29年閉山。


北海道の産業遺産?遺跡?に戻る