上ノ国町石崎の集落から石崎川沿いに約5キロ山間部に入ったところに、かつては中外鉱業上国(じょうこく)鉱業所(中外鉱山)が存在していた。
 昭和14年7月八田満次朗が鉱山を操業し、4年後の昭和18年8月に中外鉱業株式会社が買収して発展していく。この付近では他にも小さい鉱山もあり、主に道南地方に多いマンガン鉱を採掘しており、戦時中一時休止したものの昭和22年に再開した。
 マンガン鉱を精製するには不純物をなくすため焙焼炉で鉱石を焼いていた。

戦後昭和26(7)年、選鉱場、日影沢焙焼炉が4基、架空索道を建設。同32年には選鉱設備を整備し精鉱処理1万トンまで増えた。
 34年にはさらに12基の浮遊選鉱焙焼炉(トンネルキルン)を設備し、さらに精鉱処理量が増加した。
 焙焼炉は、内面は赤レンガ内張りで外囲が鉄筋コンクリートであり、内径2.3〜2.5m、高さ13.8mで1炉の挿入鉱量は50トンで、1日約130〜160トン焼鉱産出していた。出鉱粗鉱量は昭和31年で95,384トン、35年は118,883トンであった。このころから金属の値段が変動していき、昭和40年代になると生産しても赤字になっていく。
 赤字になり、マンガン鉱精製で残ったズリからも亜鉛、鉛、銀などを産出していたが昭和61年6月に休山となった。



 
特徴的な焙焼炉 2002年11月

 
特徴的な焙焼炉 2002年5月

 
特徴的な焙焼炉 2002年5月

 
選鉱場跡 2002年5月

  最盛期には従業員は役員、職員、坑内夫、坑外夫、組夫あわせて約600人、約250戸、約1,500人が中外鉱山のある早川地域に住んでいた。集落には診療所、浴場、簡易郵便局、町立若葉小中学校、保育所などがあったが、平成の現在は無人地区である。


 上ノ国町市街から日本海沿いに国道を南下し、石崎の集落から道道607号石崎松前線を石崎川沿いに入って人気が無くなった山を走ると、黒い山の斜面の中にロケット状の風変わりな施設の跡が正面に現れる。これは焙焼炉跡で、黒いものはマンガン鉱のズリ、焙焼炉の下の木枠は建物の跡である。

一番上の写真の左上の施設はベルトコンベアーで山の裏にある選鉱場とつながっていた。

選鉱場から石崎川の支流小砂子川沿いの道を行くと、鉱山施設が残っている。途中何件かの廃屋があり、やがて舗装道路も終わってしまう。その舗装が終わる手前に、排水施設、坑道が残っている。
、開けた広場には、「五十米坑 坑口」と書かれた坑道入口(13)があり、排水が流れ出している。
やや広い空地には倉庫らしき建物などがある。
排水された水の処理施設が道路の反対側にあり、現在も稼働している。



 
2006年4月

 
五十米坑 坑口 2002年5月
 
坑口? 2006年4月

埋立てられたホッパー上部? 2006年4月
 
埋立てられたホッパー下部? 2002年5月

 
廃道?の2キロ先には今井鉱山があった  2006年4月



 
排水処理施設 2002年5月


この廃道同然の道の入口の反対側は、入口を土砂によって塞がれているが、(15)。土砂の横のコンクリートの壁がそれをつたえている(ホッパーの跡か?)。
 
 舗装が切れるとその先の道は廃道になっている。2002年時訪問時は草が生い茂っていた状態だった。2006年雪解け間もない頃訪問時は、轍が確認できたが車は入ることは困難に見えた。


 この先には、小規模のマンガン鉱山の今井鉱山があったが、中外鉱山よりかなり時期に廃鉱となっており、人の往来も少ないため、訪問は困難を極めるであろう。
 ここまでは、鉱山の施設を紹介したが、鉱山によって栄えた町の遺構も残っていた。

焙焼炉の近くには「早川」と書かれた古そうな地名板がある。その先には商店跡がある(ただ単に看板だけかもしれない)。この付近で山沿いに斜めに入る道があり、そちらを行くとの選鉱場の跡になる。

 早川の集落跡には、現在人は住んでおらず、残った建物は廃墟である。早川部落会議所や遊具類(滑り台)、指差点呼と書かれた建物、若葉小中学校(9は正門)(10は校庭側から)、鉱山住宅の可能性もあるが教員住宅、沈殿池跡などがある。あとは鉱山住宅が並んでいたであろう平地が広がっている。


 
焙焼炉の先に「早川」の地名板 2002年5月

 
商店? 2002年5月

 
若葉小中学校の玄関 2002年5月

早川の中心の交差点部に若葉小中学校があった。朽ちるがままで無残な姿となっていた。
2006年4月訪問時は、更に荒廃が進んでいた。これは2004年に積丹の大森大橋壊した巨大台風18号によると思わる。

、廃校のままそのまま22年放置されて2010年に解体された。

学校はの裏側に回ると、ガレた石が敷き詰められていたが、1970年代の空中写真を見るとここには違う建物があった。

訪問時は校庭と思っていたが、校庭にしては歩きにくいことを思うと納得できた。

 

 
裏側側からみる 2002年11月

 
体育館と校舎 2002年11月

 
体育館内 2002年11月
 

学校教材資料はそのまま残っていた 2002年5月

 
天井の抜けた家庭科室? 2002年11月
 

台風によってかなり酷い状態に 2006年4月

 学校前の道は、歩道もある。この道を進むと、坑口がある。
この道路には早川部落会議所と書かれた施設が残っていたが、こちらも現在、学校と共に解体済みである。もし同時に解体されたとすれば、予算配分的に教育委員会管轄施設だったのかもしれない。

 
学校前の道 2002年5月


集会所の屋根が全くない 2006年4月

 
早川集落会議所(保育所の跡?) 2002年5月

 
早川集落会議所横の滑り台 2002年5月

 
教員住宅? 2002年5月

教員住宅と思われる建物が、若葉小中学校の隣にあったが、googlemapでは確認できないので、こちらも学校と共に解体されたと思われる。


アクセス解析で中外鉱山、上国鉱山の検索が多いので、2003/2/13に公開した内容に写真の拡大、追加と加筆修正した(2016/3/10)。



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 上ノ国町石崎の集落から石崎川沿いに約5キロ山間部に入ったところに、かつては中外鉱業上国鉱業所(中外鉱山)が存在していた。
 昭和14年7月八田満次朗が鉱山を操業し、4年後の昭和18年8月に中外鉱業株式会社が買収して発展していく。この付近では他にも小さい鉱山もあり、主に道南地方に多いマンガン鉱を採掘しており、戦時中一時休止したものの22年に再開した。
 マンガン鉱を精製するには不純物をなくすため焙焼炉で鉱石を焼いていた。
戦後昭和26(7)年、選鉱場、日影沢焙焼炉が4基、架空索道を建設。同32年には選鉱設備を整備し精鉱処理1万トンまで増えた。
 34年にはさらに12基の浮遊選鉱焙焼炉(トンネルキルン)を設備し、さらに精鉱処理量が増加した。
  焙焼炉は、内面は赤レンガ内張りで外囲が鉄筋コンクリートであり、内径2.3〜2.5m、高さ13.8mで1炉の挿入鉱量は50トンで、1日約130〜160トン焼鉱産出していた。出鉱粗鉱量は昭和31年で95,384トン、35年は118,883トンであった。このころから金属の値段が変動していき、昭和40年代になると生産しても赤字になっていく。
 赤字になり、マンガン鉱精製で残ったズリからも亜鉛、鉛、銀などを産出していたが昭和61年6月に休山となった。
 最盛期には従業員は役員、職員、坑内夫、坑外夫、組夫あわせて約600人、約250戸あり人口約1,500人が中外鉱山のある早川という地域に住んでいた。集落には診療所、浴場、簡易郵便局、町立若葉小中学校、保育所などがあったが、平成の現在は無人地区である。


 上ノ国町市街から日本海沿いに国道を南下し、石崎の集落から道道607号石崎松前線を石崎川沿いに入って人気が無くなった山を走ると、黒い山の斜面の中にロケット状の風変わりな施設の跡(1、2)が正面に現れる。これは焙焼炉跡で、黒いものはマンガン鉱のズリ、焙焼炉の下の木枠は建物の跡である。
 (1)のすぐそばには(3)の「早川」と書かれた古そうな地名板がある。その先には(4)の商店跡がある(ただ単に看板だけかもしれない)。(3)の位置付近で山沿いに斜めに入る道があり、そちらを行くと(5)の選鉱場の跡が現れた。これは(1)の焙焼炉の裏側に当たる。
 早川の集落跡には、現在人は住んでおらず、残った建物は廃墟である。早川集落会議所(保育所の跡?)(6)や滑り台、指差点呼と書かれた建物(7)、若葉小中学校(9は正門)(10は校庭側から)、鉱山住宅の可能性もあるが教員住宅(11)、沈殿池跡などがある。
(8)は学校前の道で、歩道もあるが草に埋もれているこの道を進むと、何件か石崎川の支流の小砂子川向こうにつぶれた建物も草木の中にある(多分寮があった)。その付近には、現在鉱山跡から出る排水の処理施設(12)がある。



(1)焙焼炉



(2)焙焼炉を近くから見る



(3)早川の集落入口



(4)商店跡?



(5)選鉱場



(6)集落の集会所



(7) 沈殿池前の建物



(8)正面は学校の体育館



(9)若葉小中学校



(10)校庭側からみる



(11)教員住宅?
 舗装された道が切れる辺りは開けており、そこには「五十米坑 坑口」と書かれた坑道入口(13)がある。坑口からは排水が流れ出している。やや広い空地には倉庫らしき建物などがある(14写真には写っていない)。
 舗装が切れるとその先の道は廃道同然の普通の車では入っていけない感じがする。その道の入口には、山への入口を土砂によって塞がれていた(15)。コンクリートの壁がそれをつたえている(ホッパーの跡か?)。

 廃道の先には、小規模のマンガン鉱山の今井鉱山があったが、中外鉱山よりかなり早い時期に廃鉱となっており、人の往来も少ないため道悪で、訪問は困難を極めるであろう。

2003/2/13更新



(12)排水施設



(13)坑口



(14)坑口のある広場



(15)土に被われた入口?


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