夕張炭鉱は、1890年(明治23年)に開坑して以来1977年(昭和52年)に閉山した。志幌加別川の狭い谷間に炭鉱施設や鉄道の駅が集まり、谷の斜面に炭鉱住宅が建ち並んでいた。閉山になり役目の終わった炭鉱施設も1981年(昭和56年)「石炭の歴史村」に生まれ変わって、炭鉱住宅も順次壊されていった。夕張の街は、石炭とともに発展したが、閉山とともに12万人いた人口も2万人まで減少した。 今回の旅は、2000年5月に朝日新聞で、最後?の夕張炭鉱の炭鉱住宅街を壊してしまうよという記事を見てこの炭住に興味を持ったので、お猿くん(市民プールのコーナーの14・に乗ろう!の製作者)を誘って5月後半に夕張市社光、高松地区に出向いた。 この日はあいにくの雨であったが、この日を逃すと炭住が壊されてしまう可能性があったので雨の中、夕張に向け札幌を出発した。 栗山までは空知南部広域農道(夕張鉄道の跡)をメインにドライブし道道札幌夕張線で夕張へ。 鹿ノ谷駅で小休憩し、まずはこのあたりの住宅をめぐってみる。鹿ノ谷の駅裏の山までのスペースには空き地が広がり石炭列車がたくさん発車してたころはさぞかし賑やかだったであろう。駅から西側の斜面の炭住は人が住んでいるところも多く、まだこの辺りの炭住は壊されずにいられるこてでしょう。対照的に駅裏はなんとなく壊されてしまうのかな〜って感じがした。 そして今日のメインとなる社光、高松地区に向かう。車から見る夕張の街並みはどことなく淋し気であった。これは雨が降っているからだけではない何かがそうさせているような気がした。 高松に着いてみると、解体作業準備として道路沿いに金属の板壁ができており立ち入り禁止になっていたが、ちょっとゴメンナサイという気持ちで立ち入ってみた。そこには、まだ生活感のある感じがした。2階建ての赤い屋根の建物が並んでいる。そして一軒の建物に入ってみると、中の広さはここに家族4、5人住んでいたらちょっと狭いであろうという大きさで、お風呂は無かった。台所にはマッチ(近藤真彦)の雑誌の付録ポスターが貼ってあった。またストーブは頑丈で、もちろん石炭を使うタイプのものが家の真ん中にあった。 そして高松と共同浴場をつなぐ跨線橋があり(今は線路、共同浴場も無い)、橋の向こうには集会所らしきものがあり、閉鎖され中には入れないが生活感がまだ残っている感じがした。 |
対岸の斜面にも昔はびっしりと炭住があったであろう。 ポスターが歴史?を物語る。 人がいないとは思えない佇まいだ。 |
橋中央の街灯がなかなかコジャレている。 |
奥に見えるのは高松地区。 |
高松のとなりの社光は対照的に、1階建ての青い屋根の長屋が並んでいた。建物の中に入ってみると畳が無くなって床板までもないところや、長屋の壁を打ち抜いて広くして使用していたところもあった。庭に花壇を作っていた家は、こぼれた種から咲いたであろう綺麗な花が雑草に混じっていた。 1時間ほど滞在し、僕たちは消え行く街を後にした。 |
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