飛行場の遺構は、殆ど残っていない。
かつて音威子府と稚内を結んでいた天北線の飛行場前駅跡近くのゆるい谷に、衛門に続く橋の橋脚(現在の農道は、谷を下って登る)と、橋脚の先に飛行場の門、並びに水槽の支柱が残っている。
また、北には瓢箪沼付近に、無蓋掩体が数個残っている。また左写真の中央に下に延びる道は空港の道?の跡を利用している?。
北海道文化放送でかつて放送された好奇心HOKKAIDOという番組でこの飛行場が紹介されているという情報を千春の家様より提供していただきました。
その内容を紹介。
飛行場跡の近くに住むSさんの話、
第二次世界大戦後半に建設を目撃。2つ残る衛門のその近くには衛兵所があったという。終戦後、飛行場の資料は燃やされてしまったので飛行場が無いので記憶を元に資料を作っている様子が写される。滑走路は1200m、北方防衛ため、北海道に6つの飛行場を作ったうちの一つ。
17年に大規模な工事を始めた。
強制連行された人が主力となって土を運んで造った。
掩体が出来た当時は、笹も生えていない引締まった土色をしていたとの事。掩体壕の傍までやって来て、飛行場が農地として開放され、地主が壊さなかったので残ったとのこと。
飛行場が出来る前は、木がたくさん生い茂っていた。木の根を掘るのにタコと呼ばれる人が裸足で作業をしていたとの事。寒さや衰弱して凍えて死んでいった人が多い。
近くのお寺に100名ほどの朝鮮の亡くなった人の名簿があるという。 |