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日本の最後の秘境とされる道東知床、厳しい自然条件も手伝って人も住まない地域でもある。この知床の斜里町内には知床五湖と呼ばれる秘境かつ絶景が広がる地がある。しかしこの地にも過去に開拓があった。 人が住んでいたという事を知ったのは、01年秋に知床五湖に行く途中に廃屋が何件かあったこと、知床一湖にかつてココに人が住んでいたことが案内板に書かれていたことからである。
案内版は以下のとうりである。 イワウベツ開拓と知床100平方メートル運動 一湖の対岸は、開けたササ原になっていますが、これは、昭和40年頃まで行われていた放牧の跡地です。知床五湖のあるイワウベツ台地一帯では、大正、昭和と2回にわたって開拓が試みられましたが、いずれも失敗に終り、入植した農家は全戸離農しました。この開拓跡地を再び買い戻し、自然を復元するための運動が今、全国の人々の協力によって進められています。 環境庁・北海道
イワウベツはアイヌ語でイワウペツで硫黄川と訳されており、あて字で岩尾別と記された。岩尾別川の東側なので川東地区(川東という説明は特に記載するものは参照できず、こちらの推定ではあるが)と呼ばれた。 明治43年岩尾別原野に殖民区画がなされ、大正時代に入植者が現れた。 この間に国の投資した基盤事業費は1億3600万円、山林、公共事業に2億円以上とかなりのお金を費やした。しかし農地として不適当であり立地条件の劣悪から生活環境は最悪であった。厳しい自然条件とたびたびの冷害で営農は延びず、昭和30年代の入植でも増地するために岩石除去はとても大変であった。このころ馬車が通れるよう農道の開削が行われ、また昭和30年地域振興対策として澱粉工場が木造ブロック造で完成するも、33年までに廃業してしまう。 昭和41年に全戸が移住を決断し、それに伴い42年に岩尾別小学校も廃校となった。移住先は斜里町東端の豊倉?であった。
過酷な自然条件下で住宅事情も悪く、夏もそうだが、特に冬はどのように生活していたのか? 人間も栄養失調に成りがちだろうし、牛も乳が出たのか? 小学校があったことを記載したが、どれだけの子供がきちんと通えたのだろう? などなど疑問が湧くのである。 北海道の産業遺産?遺跡?に戻る |