徳舜瞥鉱山

 
大正5(1916)年に発見された徳舜瞥の鉱山は、伊藤周次郎が発見し、試掘権を得たが、その後経営権が北海道製鉄、三井鉱山、輪西製鉄と移り、大正14年に日鉄鉱業の所有となる。日鉄鉱業徳舜瞥鉱山は、昭和14(1939)年から試掘をはじめ、翌年から本格的操業。

昭和15年操業開始昭和39年3月まで褐鉄鉱を採掘した。胆振縦貫鉄道徳舜瞥駅から空中索道が設けられ、資材の搬入、鉱石の搬出が行われた。
総採掘量158万7千トン、露天掘りと坑内採掘を併用して、年間約10万トンを産出、戦前だけで66万2千トンに及んだ。褐鉄鉱は、水と吸着した鉄の酸化物で鉄資源として重要であった。

昭和27年は職員14名、従業員126名、季節労働者100名。

硫黄鉱は、褐鉄鉱の探査中昭和29年に発見。昭和30年6月掘削、昭和32年11月、硫黄鉱石索道破砕場、胆振線新大滝駅の専用線駅構内貯鉱槽が完成。年間20万トン体制を確立していたが、44年以降は16万トン体制、46年3月に閉山。



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徳舜瞥山の登山道の入り口、林道ホロホロ山線の入口から山を登っていき、鉱山の遺構があるのか見に行く。

(1)は国土情報ウェブマッピングシステム昭和51年度の写真、林道の入り口には学校、その奥に鉱山住宅跡とが写っている。

(2)は小学校跡校舎があったところは荒地、(3)グランド跡はキャンプ場になっている。(3)と道路を挟んだ反対側には火の見櫓が残っている(4)。

(5)鉱山住宅跡はすでに森に戻っていた。見方が悪かったのか?住宅の基礎は判らなかった。

住宅跡の森を抜けると、牧草地?(6)が広がっており、中央右の雲の下あたりに錆びた索道の支柱が残っている写真が小さくて判らないですね、写真を拡大、角度をやや変えて撮影したもの、違うもの?が(7,8)。結構背が高い。



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索道の支柱を見つけたので、他にもないかと山道を進むと、植林された木の合間にも1つ発見(9)。拡大したものが(10)。前者に比べ支柱の高さが低い。索道ではなく送電線??。「鉄道廃線跡を歩く8」には索道の支柱が3本残っているとの記載がある。



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怪しいリゾート開発?地区を過ぎ、林道は、廃道と分岐する(11)。前出の国土情報ウェブマッピングシステムを見ると鉱山地区に行く道みたいである。たぶんこちらが硫黄鉱山??。正面に見える山が徳舜瞥山。

やがて林道は、登山者の駐車場になる(12)。ここ辺りの山肌は崩されているので、この辺りで採掘をしていたのであろう(13)。



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車を降り、登山道を少し歩くと、鉄管が転がっていた(14)。鉱山に使われていたものであろうか?

((15)は、現役時代の写真だが、(11)付近から撮影したものと思われる。(16)は空中索道。大滝村百年史(1995)より転用、尚、大滝村史には、これらの写真のほか、坑内の写真などもある。

ここまでで来た道を引き返した。そして、胆振線の新大滝駅跡に残る遺構を見に行く。

長いコンクリートの遺構があるが(17)、道路が作られたため、一部切断されている(18)。どのように使われていたのだろうか?上に線路?

(17)の鉄の箱は、索道に使われていたもの?なのか。

2007年10月訪問



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