にしん漁場建築(漁家建築) ニシンロードを行く 
その1 ニシンについて 
    江差から岩内

 北海道の日本海側(太平洋側にも)の海岸線には、かつて多くのにしん漁場建築が存在していたが、海岸線に道路を作ったり、護岸の整備などでそれらの建築物は消滅していった。
 ここでは、ニシンロードと私が勝手に名付けさせてもらった北海道の日本海側、追分ソーランライン、オロロンラインに現存(消滅しているものもあるかもしれません)する、網元や漁師たちが寝泊りしていた建物や、鰊漁に関する商家なども一部紹介していきます。

 僕は建築の専門家ではありませんので、詳しい定義は解らないですが、にしん漁場建築、ならびに漁家建築とは、ニシンの漁家が作ったはニシン御殿、番屋と呼ばれる一連の建築物のことです。
 ですから、一般的には単純にニシン御殿といえばピンと来るかもしれませんね。

 僕の目から見ての漁場建築なので、そうじゃないものもありと思います。屋根の上に、ポコッと小さい屋根(望楼)がある建築は勝手に漁場建築と見なしました。

もし、このページを見て建物の見学をする際には、殆どが海岸線の道路沿いにあるので、駐車する場所を考えて交通の妨げにならないように、また見学の際(特に個人住宅)のマナーを守り、その建物を所有している方、地域の方々にご迷惑がかかることがないように気をつけてください。

2004年9月北海道を襲った台風18号のものすごい風と高潮の被害のため現在の状況は把握できてません。写真撮影は2002年初夏〜初冬、2004年10月

ニシンで、御殿が建つほど儲かったのは、ニシンが多量に獲れた時代で、ニシンが食用としてよりも農作物用の肥料として重宝されたからである。
食用としては、身欠き、数の子、白子などで、数の子は今もそうだが高価商品であった。
ニシン粕による肥料が漁獲高の80%を占めている時代もあったのだ。大がまでゆであげその後、水分と油分を搾り取った果てに残るものが肥料用のニシン粕であり、ニシン粕は、干鰯よりも良質とされニシン粕が空前のヒット商品となっていた。

ニシン漁末期の昭和の戦時、戦後には、ニシンが食料として、そして一部は鮮魚として扱われるようになった。

ニシン漁は松前藩のあった江戸時代から始まっており、明治、大正時代に漁業の近代化が進み漁師の数も増え漁獲高が一気に上がったが、昭和30年、漁獲高が皆無になり(全く捕れないと言うわけではない)、沿岸部よりニシン漁は消えていった。

ニシン漁、建築物についてはこちらのサイト、本を参考としました。
余市宇宙記念館ホームページ余市町見て歩き
NPO法人 小樽 歴史文化研究所後志鰊街道

鰊 失われた群来の記録 高橋明雄 著
北海道産業遺跡の旅 堀淳一 著
道南・道央の建築探訪
小樽の建築探訪
旭川と道北の建築探訪            5冊とも北海道新聞社
角川地名大辞典 北海道 :角川書店


江差町

江差は江戸時代からニシン漁で繁栄を極め、「江戸にも無い江差の春」とも言われていた。北前船交易により栄えた地域。ニシン粕を北前船に載せて本州に運び、代わりに米を積んで帰ってきて繁栄した。
江差地方のニシンの大量は大正2年が最後だった。その後漁場は北に移る。

旧関根家別荘
明治30年代まで、松前藩第一の豪商として江差で回船問屋を営んだ人の別荘。

旧横山家
江戸時代後期に建築された回船問屋屋敷で、表が店で、裏が船荷の搬入口と倉庫になっていた。母屋の裏に四つの蔵が一直線に並んでいる。

旧中村家
江戸時代から続く回船問屋で近江商人の大橋宇兵衛が建てた、問屋建築の代表的な建物。大正時代初期に大橋家から中村米吉が譲り受けた。裏側は、ハネダシと呼ばれる海岸に柱を立て作られた倉庫で、荷揚げ場となっていた。現在裏側は埋め立てられ国道が通っている。



旧関根家別荘



旧横山家


 
旧中村家   左が表の店入口、右がニシンを収納したハネダシ倉庫


上ノ国町

旧笹島家住宅
天の川近くにニシン漁で繁栄した笹島家住宅がある。天保9年1838年建築で現存す北海道民家の中では最古。


瀬棚町

瀬棚の集落から北に向かって暫く走ると、島歌地区になる。その中の美谷付近に残る袋澗? 。

袋澗?の防波堤が残るが、石積みの中は砂だったのか?、崩壊も激しい。特に、写真左側の防波堤はだいぶ崩壊している。この遺構の近くの民家は建て替えがすすんでいた。

港だとすると、鰊漁のために造られたかどうかは判りませんが、この場所での他の遺構は確認できず。



海岸に2本の平行した防波堤 



左側の防波堤、内側は崩壊



右側、船を停泊させる綱を通す穴?

袋澗(ふくろま)

たくさん獲れたニシンを網に入れて生かしたまま保管しておくため、海岸に石を積んだ堤で囲った、プールのような形態のもの


寿都町

寿都湾の西側、国道の旧道(道道9号)沿いに残る建築群。倉庫と民家を挟んで中央と右の写真の建物が隣り合っている。



倉庫が2棟



番屋風の建物が2つ並ぶ

 

大正3年の建造
寿都の市内、現在の国道沿いには壽都劇場と書かれた映画館跡がある。
比較的大きいく、漁業で栄えた当時を伝える遺構。


寿都湾の東側の歌棄周辺には鰊漁に関する遺構が点在する。

歌棄の有戸にある鰊御殿という名の旅館は、弁財船でカズノコや身欠きニシンやニシン粕などで膨大な利益を上げた商家橋本家、明治初期に当時の最高級の商家として4年の歳月をかけて建築した。釘は1本も使われていない。昔は蔵が沢山あったそうです。



寿都劇場



旅館として営業中?



建物の向いに船着場と神社



佐藤家

旅館鰊御殿の近くの佐藤家は、江戸時代(嘉永)のころから歌棄だけではなく、積丹半島近辺随一の名家である。明治10〜20年代に建築され洋風と和風とが入りまじった折衷の独自の外形で、屋根をまたいで洋風の六角形の明かり取りが特長的である。
個人宅であり、番屋としての機能は設置されていなかった。現在でも人が住んでおり内部を見ることは出来ないが、外には案内板がある。北海道指定有形文化財。



濃い目のレンガ色の蔵



長く立派な明るい色のレンガ



鰊粕を貯蔵していたのだろうか?
佐藤家から岩内方面へ少し行った歌棄の種前には、立派な煉瓦造りの旧岡田家倉庫が国道沿いに残る。屋根はトタンではなく瓦を用いている。

種前の次の集落である美谷にも港(袋澗?)の跡がある。番屋風の建物が港跡近くに残る。



海岸に神社



港の遺構(現役?)、それとも袋澗?



港そばの民家

寿都町には、港があった所に袋澗が一部残っているとも。

岩内町

市街入口の敷島内付近には、レンガ倉庫が残る家屋がある。

レンガ倉庫を作ることで、冬の日本海からの強風や高潮から家財、鰊製品を保存していたのではないだろうか?

岩内には残念ながら遺構が殆ど消失している。



レンガ倉庫 



レンガ倉庫? 


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