鴻ノ舞金山
忘れられた町10 鴻之舞鉱山その2へ
流氷観光の拠点紋別市の山中に、かつては日本一の金鉱山として賑わった鴻之舞鉱山があった。
オホーツクゴールドラッシュ
明治29年北見枝幸地方で一大砂金地帯が発見され、人煙稀れだった原野は入植者によって集落が出来始めた。これに付随し紋別地方でも砂金熱が高まり、明治38年ヤッシュウシナイ川上流で金山が発見されて(八十士金山)、当地方の河川は砂金堀の人々で賑わっていた。
紋別だけでも大正3〜5年は三王(金鉱)、鴻ノ舞(金鉱)、沼の上(金鉱)が相次いで発見され、昭和10〜22年上渚滑(銅鉱)、元紋別(銅鉱)、音羽(金銅鉱)、志文(チタン鉱)などが発見された。
大正4年発見の鴻之舞は、異例の高値(90万)で住友が鉱業権を買収して、急激に大鉱山集落が形成さてた。当初住友は、精錬所は山向こうの遠軽町社名淵にする案が有力だったが、安価で鴻之舞の土地を購入して当地に鉱山設備が作られた。住友が経営をはじめた頃は、第一次世界大戦後の金価格の固定、労働力不足、新鉱床が発見できないなど悲観的であったが、為替相場の暴落、関東大震災後の復興などによって経営も安定してく。
大正7年には学校教育、医療も鴻之舞の地で受けられるようになり、社宅、ラジオ、映画など福利厚生施設も整えられていった。
昭和2年、金の産出量が全国3位
昭和6年、我が国最大の金銀鉱床に着脈、鴻之舞丸瀬布間道路(金八峠)が完成
昭和7年、石北線が丸瀬布まで開通し、鴻之舞と丸瀬布間は架空索道が完成しこれを利用した(昭和26年まで利用)
昭和11年、金の産出量は2トンを超え全国1位になる
昭和13年、火災で精錬所が焼失したが、これを機に処理能力のある新精錬所を完成させた
第二次世界大戦が始まると、労働力不足によりこの手の鉱山に共通して朝鮮人労働者を投入する
昭和18年、戦争激化に伴い、国際社会から孤立した日本では金の持つ意義は失われ休山となる。鉱山の人員、資材は重要工場へと配置転換された。そんな中、住民の生活物資輸送の目的のため昭和15年から工事が進められた紋別と鴻之舞間の軽便鉄道(鴻紋軌道)が完成したが、皮肉にも休山のための転用資材運搬に使われた。昭和24年廃止となり、薄命であった。
昭和20年11月、戦後再開するも食糧難
昭和26年、新鉱床の発見
昭和37年、減産体制へ移行、希望退職者募集
昭和39年、保有鉱量が跡数年で枯渇することがわかり、新鉱床を探鉱したが成果は上がらず、優良鉱を生産していた坑も鉱脈が尽きて産出量も減少した。
昭和46年、事業を縮小していき従業員も168人まで減少
昭和48年、可採鉱量も夏季までと見込まれ、7月松で採鉱を終え閉山
5月24日閉山式、10月末廃山
開鉱以来、56年の歴史を持って鉱山は消えたのである。
昭和48年、閉山直後沈殿池が決壊し、有毒物が藻別川に流出して海まで害があった。現在も沈殿池があり、廃山後も山全体は管理されている。
現在の鴻之舞を紹介する
(1)鴻紋軌道の廃線跡、川に残る橋脚
(2)道道を跨ぐ鴻紋軌道の鉄橋跡
(3) (1左)の脇に坑道入口跡?が残る。
違う時期に行ったら整備されていた
(4)人道橋?トロッコ鉄橋?謎
(5)道道の脇には、またまた坑道入口らしきものがある。
その上には朽ちた桟道が残る。どういった目的で造られたのか?
まるで劉邦軍が造った漢中の石門桟道のよう。
(6)現在の沈殿池が閉山後の排水処理施設として残っている
(7)TOP写真と左、戦後の鉱山精錬施設、破砕場跡
左写真は戦前の鉱山精錬施設、場所は同一地点ではない
(8)門のついた橋が残る
(9) (7左)方面に続くベルトコンベアー?の支台が残る
(10)鉱山の慰霊碑
(11)門が残る空地
たぶん清明寮の跡地
(12)左、小学校跡は土地を整備してあるが一部柱が残る
右、現役時代の小学校の校舎
年
人数 (人)
学級数
大正15
昭和 5
10
17
30
40
48
158
302
1,593
824
1,170
391
閉校
4
6
31
17
24
12
(13)中学校跡付近に残る住宅跡
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