国道38号線方向から道道242号を庶路川沿いに北上し、約6キロほど走ると左手に(1)のズリ山が見えてきた。
明らかにこの地に炭鉱があったことを示していた。
訪問時、だいたいの場所しかイメージがなかったのでこのズリ山が本岐炭鉱の目印となった。そして付近を散策すると、炭鉱施設跡が森に眠っていたのである。
車を道道に停め、探索を開始する。建物としては(8)の煙突の上部が最初に目に入ってきたが、(2)は道路から近い場所にあった。建物までは舗装道(廃道)によって歩き易い。建物内は大きな四角の穴が掘られており、そこには不法投棄のゴミが捨てられていた。
その建物の裏に出ると(3)のホッパーがまたまた眠っていた。
ここからは道もないので雑草群をかき分けて近づく(4)。ホッパー内部はコンクリートのひんやりとした空気が漂っていた。中に入ると(5)、奥に階段があった。そして階段を上るとTOP写真の建物が目の前にあった。まるで深い森の中にある古代遺跡のような感じにも見える。内部は段違いの床構造の建物で一体何に使われていたのかは判らない。
建物の中へは入らずその外を回って反対側に行く(7)。反対側から見ると入口や窓枠があることが判った。その建物の横にはナゾの大煙突とコンクリートの高い建物があった(8)。炭鉱跡には巨大煙突が多いけれども実際何に使われていたのでしょうね。
(7)の地点から道無き先には(9)の背の高い建造物がさらにある。雑草群を突き進むとそれはホッパーであったが、入口はとても狭かった。ホッパー内部はコンクリートのひんやりとした空気が漂っていた。
この建物からさらに奥にも炭鉱施設や住宅の跡が残っているみたいだったが、日没が近くなってきたこと、1人での探索、危険が付きまとうのでここで探索を打ち切ったのであった。 これらの建造物群は僕が思うに、昭和35年前後に建てられ、この一連の施設が完成して炭鉱の産出量が上がったのではないのかと考えた。しかし、44年に閉山されるまでの短命な期間のみ使われたのではないであろうか?
道道に戻り、これらの炭鉱跡のすぐ近くの中庶路の集落は、人気も少なく、郵便局も廃局となり(11)、小学校も廃校となり(12)こちらは農業作業機の格納庫となっていた。 本岐と中庶路の集落は隣り合っていて、炭鉱全盛期にはかなりの人が暮らしていたのではないであろうか? |