道道29号 美味しそうな名前の梅漬峠


梅漬峠について少々。

古くは、アイヌは、茂辺地越え、茂別越えと呼んでいた安政年間からある山道で、改修開削してもこの峠の西側にある現在の稲穂峠がある木古内山道より不便であるといわれていた。

大正10年には稲穂峠の道は改修が終わり、梅漬峠の道も昭和2年になってようやく開削に着工し、昭和12年に全線完了した。しかし、豪雨や融雪によって橋の流失、道路の崩壊がおこりわずか数年で、通行途絶となった。

戦後になり、改修陳情の結果により昭和24年にようやく改修工事が完了し、昭和29年に道道に認定され、昭和32年から改良工事が始まった。

今回走った感じでは、その際に作られたであろう2車線の橋が多数であることが分かった。


梅漬峠の由来

物資運搬の人夫たちが、この峠で一休みし、昼食を取り始めると、自分たちの荷物の中に梅漬の樽があるのに目を付けた茶目っけの一人が、「殿様に叱られてもしかたなかんべ」と言って、樽の中の蓋をとってつまみはじめると、他の連中も「俺さも一つ」と手を出して「うめ〜梅干しだな〜」と一同笑いさんざめきながらちょうだいしたという昔話から「梅漬峠」と呼ばれるようになった。


北海道から引越しした年の秋口に車で函館に再上陸した。
まずは函館からすぐの、道道29号上磯厚沢部線の梅漬峠を走ってみることにする。昨夜まで雨が降っていたが天気も回復しているが、昨日の雨でダートの路面が気になる…。

上磯町茂辺地市街の旧国道228号から道道は山間部に入っていくが、案内板は無い。



(1)津軽海峡線の踏切



(2)この先砂利道の案内



(3)なぬ〜?通行止?

 
津軽海峡線の踏切を渡ったところに道路情報板があり、そこには赤で「通行止」と表記されていた(1)。???通行止なのか〜、夏に台風も北海道を直撃したし残念だな〜なんて思ったけど、とりあえず行止りまで行ってみようと走り出す。

舗装路には(2)のような

この先8kmから砂利m値15kmあり

という案内が2ヶ所あった。(2)地点で対向車1台あり更に進む。暫く行くとまたまた「通行止」の案内(3)。やはり通行不可なのか…?。

踏切から約10キロで舗装路はダートになり(4)、道幅も狭くなる。約1キロで(5)の大型車通行不可の看板、その100M先にゲートと分岐がある(6)。

ゲートが開いているので、本当に通行止なのかな?と思いながら通行は出来そうなので進入していく。



(4)舗装からダートへ



(5)大型車通行不可の案内



(6)ゲートは開いている

 
道道は西股川沿い(7)の渓谷を走るが水面は殆ど見えない。勾配は緩やかで(8)、道幅もすぐ離合できるが、所々に半径のきついカーブもある。

4キロ程で金曲橋で西股川を渡る(9、10)。この後は何回か川と交差していくのだが、この橋は昭和63年製。小さな橋を渡り(11)、昭和39年製の2車線確保されているが雑草が生茂った大曲橋、昭和40年製のこれまた2車線確保された山越橋(12)を渡る。この辺りの道路は橋の上が離合ポイントとなっている。

ここで昭和30〜40年代に、将来は主要道道として2車線の道路とするため、この道は現在の道とほぼ同様な環境下に整備されていったのだろう。しかし不思議に思うのは、整備昭和63年に架け替えられたと思われる橋が道幅が細いという点である。



(7) 西股川に沿ってクネクネ



(8)緩やかな勾配



(9)金曲橋



(10)金曲橋から見る川



(11)2車線分の大曲橋



(12)離合可能な山越橋

森林地帯から、山を切り崩して作った区間になり(13)、カーブを曲がるとそこは踏切から約20キロ地点の梅漬峠山頂である。
頂上には、営林署による「梅漬峠」の案内板と駐車スペースががある(14)。峠からの景色は木々に囲まれ良くない。木々の僅かな隙間から厚沢部方向を見た景色がかろうじて見れる程度である(15)。



(13)山を切り崩した道



(14)梅漬峠頂上



(15)峠からの景色

下りは道幅も広く緩やかに下っていく(16)。
頂上から約1キロで工事区間が現れる(17)。もしかするとここで落石が起きて、それを修復しているのでは?。そのため上磯側には「通行止」の記載されていたのではないのでは?と勘ぐってみる。

1キロほど下るとススキの斜面が現れ(18)、この付近では砂利は撒かれていないが道路2車線分のスペースが取られている。



(16)緩やかな下り



(17)落石現場?



(18)2車線分確保?



(19)林道分岐



(20)やや狭い橋



(21)広いかつら橋

 
やがて林道との分岐が現れ、昭和62年製の2車線分ある橋を渡る(19、橋の写真はないが写真21とほぼ同様で欄干が白)。
しかしその後同時期完成の2車線分無い橋(20)を渡る。同時期にしてこの違いは…。

斜度も無くなり、再び2車線分ある欄干の色の違う橋を2つ渡り(21、黄色と緑)、正面に標識の裏側が見えてくるとその先は舗装路になる(22)。
(5)もそうだが大型車両の通り抜け出来ない警告板がある(23)が、もし大型車が警告板を見て道を引き返すと考えても、大型車が旋回できるスペースは双方ともない。



(22)舗装路が見えてきた



(23)砂利道を見る

峠を越えて舗装路になってから通行止がある訳も無く、結局通行できた訳である。

舗装路は昔からの道を拡張して舗装したような感じの道で、佐助沢川に沿ってカーブが続く(24)。この区間の舗装路にある橋は昭和40年代の橋(25)である。ちょうど(21)の橋を舗装路にしたような感じだ。



(24)快適な舗装路



(25)新製ではない橋



(26)厚沢部側の道路案内

 
舗装が始まって6キロ程走ると、厚沢部側の道路情報板がある(26)。
上磯側では「通行止」と掲示されていたが、こちらは「走行注意」で正しく掲示されていた。こういう案内は、道路を管理依頼されている人がサボらず正確な情報を伝えて欲しいものである。

砂利道部分約16キロ
路面★★☆☆☆
景色★☆☆☆☆
2003年9月中旬走行

2010年1月現在、2005年秋頃から長い間通行止めが続いていると思われる。もともと冬季は通行止。



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中山峠

函館から中山峠までは江差山道と呼ばれ、その先は、鶉山道、鈴鹿道路と呼ばれていた。鈴鹿道路の由来は、1858年安政5年に江差の豪商「鈴鹿甚右衛門」が私財800両を投じて山道開削をした功績をたたえたためである。

1923年大正12年、峠に延長115.6m、幅員5.5mのトンネルが開通、
昭和28年2級国道函館江差線となり、峠の改良工事が始まり、昭和41年延長580m、幅員7mの新トンネルが完成、昭和52年に全線舗装された。

稲穂峠

アイヌがこの峠を越えるとき「イナウ」を捧げたことから名がついた。和人も利用しており、木古内山道と呼ばれており、鶉山道が開削されるまでの唯一の東西横断道路。

1817年に幕府が改修し大正10年に馬車の通れるように改修工事、昭和37年改修工事で150mのトンネルが完成。




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