函館漁港 船入澗防波堤


函館港西側にある函館漁港には、明治29年に廣井勇が監督技師として起工した函館港改良工事で造られた石積防波堤が現存している。
 
船入澗防波堤は明治32年に完成、北海道で最初の近代港湾施設である。

江戸時代に造られた弁天台場を埋立て、市街地、船渠用地、漁船船入澗を造成した。その際に弁天台場の土塁石垣石をそのまま使用した。

(2008年10月訪問)


 函館山の麓の函館漁港


 きれいな石積み


漁船の出入口にはコンクリートのシンボル 


  





森桟橋 跡

森桟橋は、1872年(明治5年)に建設が始まった札幌本府と、当時の経済の中心地であった函館を結ぶ札幌本道の唯一の遺構である。
(2008年10月訪問)


札幌本道は、本願寺街道のルートを考えていたが、函館から森に出て、森から内浦を船で渡り、新室蘭(室蘭市海岸町・トキカラモイ)に上り、そこから苫小牧を経て札幌市豊平橋までに至るルートで、明治5年3月18日、亀田村一本木(函館市若松町)で着工された。約1年で、幅員44尺(13.3m)ないしその半分、22尺の西洋式馬車道が完成した。

海路を選んだ理由として、長万部と豊浦間の礼文華山道があまりに峻険であっためで、こちらの改修開始は1890年(明治23年)からである。


森の飲食店街にある森桟橋跡の碑
 


碑の先にさらに
明治天皇御上陸記念碑


岸から記念碑
 


橋脚材が残る。
正面に回れば等間隔に並んでいる


森駅の近くの飲食店街、線路に面した一角に森桟橋の石碑がある。

ここに説明板があり、明治6年、全長255mの森桟橋(波止場)が完成。栗の木が多く使われ、当時鷲ノ木で湧出していた石油を橋脚の防腐剤として使用した。
定期便が運航され、当時の森村は旅人等の往来で大変にぎわった。

明治14年、明治天皇本道御巡幸では、この桟橋より上陸された(室蘭から海路で)。その記念碑が桟橋のあった海の中に建っている。
明治26年に函館室蘭間の定期航路が開始されると、一時廃止されたが、15年後の41年に民間会社によって運行される。昭和3年利用者減少で、廃止となった。

跡地には、朽ち果てた橋脚材が残っている。正面まで行くと、等間隔に橋脚跡が並んでいるようだ(他のサイト参照)。


後日で写真を確認すると記念碑の他に
2か所(右左)、橋脚材があることがわかった





国富鉱山

国富鉱山は、明治23年に三井合名会社の手で採鉱、北海道唯一の粗銅精錬所として操業開始した。
後、実業家の田中平八が鉱山を譲り受け、新しい銅鉱床を発見し、明治41年には銅精錬所を設置した。大正5年には1234トンの粗銅を生産。
精錬事業が開始され、将来が期待されたが、昭和5年に煙害問題が起こり、同6年不況のため精錬を中止した。

昭和10年になると、住友がこれを買収し、採掘、精錬設備の改善に努め、11年に精錬所を開始した。21年には、乾式精錬所を設け、36年から硫酸工場を建設、操業した。同14年には1572トンを記録したが、敗戦とともに鉱量が減少したため鉱山は休止、精錬所だけが残った。
26年には鉛精錬所を設置、32年には鉛電解工場を新設し、鉛地銀を生産した。

近くの余市鉱山が昭和38年に閉山してからは、鉱石を外国からすべて輸入して精錬を行っていたが、49年に輸入が廃止されたため精錬事業は閉鎖し、建材用品工場を設置して操業を続けた。

写真:2002年8月撮影
    


大正9年3月発行 5万分の1 岩内
国富駅から専用線らしき線も
坑口は3つ記されている 


当時のホッパーが残っていたが、平成23年現在撤去済
 管が通っていた穴が開いている
 
 

煙突とホッパー
 
 
 

ホッパーの上に謎の施設
ホッパー内部に
コンクリで蓋された穴がある
 

煙道が切断され埋められていた
この手前に焙焼炉があったのであろう
 



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