本岐炭鉱


白糠町は、北海道における初めての炭田開発の地である。安政4年(1857年)に白糠で採炭を開始していた。しかし炭質が悪く7年で放棄されたのであった。

白糠町をはじめとした近隣の炭鉱地区は、明治時代になると炭鉱開発が始まった。白糠町では、庶路川沿いを中心に大小の炭坑がいくつが増えていき、小規模の炭坑は、白糠・新白糠(石炭崎)・神之沢(庶路)・松野沢(庶路)・大洋・上庶路(北光と北新)・北東・茶路白糠・東亜・加利庶・西白糠・泊別・王内・東栄、大規模の炭坑は庶路と本岐のあわせて17の炭鉱が開かれたのであった。昭和20年頃には大まかに8箇所となった。(多少間違えているかもしれません)

戦時中は全炭鉱が閉鎖されていたが、戦後になり昭和30年代になると新坑の開発が相次いだ。これは、白糠線の開通を見込んでのものだったが、エネルギー革命や開通の遅れで、新坑開発とともに閉山も相次いだ。昭和45年、上茶路炭鉱の閉山で、白糠炭田は全てなくなってしまった。

白糠炭田のうち大規模な庶路と本岐の2つの炭鉱は明治鉱業が運営していた。今回は本岐炭鉱の跡を紹介していく。

本岐炭鉱は中庶路地区で1924年開鉱し、昭和16年(1941)に明治鉱業に経営が移った。戦時中は中断し、昭和21年に再開された。以後発展していくが、他の炭鉱同様、エネルギー革命により昭和44年4月30日閉山した。ちなみに、庶路炭鉱は39年1月31日に閉山。

         石炭産出量
昭和31年    29t
   38年   210t
   40年   243t
職員は多いときで約400人いた。


国道38号線方向から道道242号を庶路川沿いに北上し、約6キロほど走ると左手に(1)のズリ山が見えてきた。

明らかにこの地に炭鉱があったことを示していた。

訪問時、だいたいの場所しかイメージがなかったのでこのズリ山が本岐炭鉱の目印となった。そして付近を散策すると、炭鉱施設跡が森に眠っていたのである。

車を道道に停め、探索を開始する。建物としては(8)の煙突の上部が最初に目に入ってきたが、(2)は道路から近い場所にあった。建物までは舗装道(廃道)によって歩き易い。建物内は大きな四角の穴が掘られており、そこには不法投棄のゴミが捨てられていた。

その建物の裏に出ると(3)のホッパーがまたまた眠っていた。

ここからは道もないので雑草群をかき分けて近づく(4)。ホッパー内部はコンクリートのひんやりとした空気が漂っていた。中に入ると(5)、奥に階段があった。そして階段を上るとTOP写真の建物が目の前にあった。まるで深い森の中にある古代遺跡のような感じにも見える。内部は段違いの床構造の建物で一体何に使われていたのかは判らない。

建物の中へは入らずその外を回って反対側に行く(7)。反対側から見ると入口や窓枠があることが判った。その建物の横にはナゾの大煙突とコンクリートの高い建物があった(8)。炭鉱跡には巨大煙突が多いけれども実際何に使われていたのでしょうね。

(7)の地点から道無き先には(9)の背の高い建造物がさらにある。雑草群を突き進むとそれはホッパーであったが、入口はとても狭かった。ホッパー内部はコンクリートのひんやりとした空気が漂っていた。

この建物からさらに奥にも炭鉱施設や住宅の跡が残っているみたいだったが、日没が近くなってきたこと、1人での探索、危険が付きまとうのでここで探索を打ち切ったのであった。
 これらの建造物群は僕が思うに、昭和35年前後に建てられ、この一連の施設が完成して炭鉱の産出量が上がったのではないのかと考えた。しかし、44年に閉山されるまでの短命な期間のみ使われたのではないであろうか?  

 道道に戻り、これらの炭鉱跡のすぐ近くの中庶路の集落は、人気も少なく、郵便局も廃局となり(11)、小学校も廃校となり(12)こちらは農業作業機の格納庫となっていた。
 本岐と中庶路の集落は隣り合っていて、炭鉱全盛期にはかなりの人が暮らしていたのではないであろうか?



(1)道道沿いのズリ山



(2)舗装路と建物



(3)森の中のホッパー



(4)さらに近づく



(5)中に入る



(6)TOP写真の内部



(7)TOP写真の裏側



(8)煙突とコンクリートの建物



(9)さらに奥へと進むとホッパー



(10)ホッパー内部



(11)郵便局跡



(12)小学校跡

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